角櫓跡(すみやぐらあと)
櫓は矢倉とも書かれたように戦闘用の建物で、角櫓は胸川が球磨川に合流する人吉城北西隅の
要所に建てられた櫓である。元は藩の重臣の相良清兵衛頼兄(さがら・せいべえ・よりえ)の屋敷地
であったが、寛永(かんえい)17年(1640)の「御下(おしも)の乱」で屋敷が焼け、その直後に櫓が建て
られている。
幕末になると角櫓は漆蔵として使用され、文久(ぶんきゅう)2年(1862)の寅助(とらすけ)火事でも 焼失せず、明治初期の廃藩置県後に他の建物とともに払い下げられて撤去された。写真は、明治 初期に医師の佐竹文敬(さたけ・ぶんけい)によって、撮影されたものである。 建物は瓦葺きの入母屋(いりもや)造りで、梁間(はりま)3間半(7m)、桁行11間(22m)、壁は上部が 漆喰塗りで下部を板張りとし、内部は廊下があり、3部屋に分かれている。(平成5年度復元建物) 平成5年3月 人吉市教育委員会 |
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