下台所跡・犬童市衛門屋敷跡
(しもだいどころあと・いんどういちえもんやしきあと)


 江戸時代初期の絵図によると、球磨川と後口馬場(うしろぐちばば)に挟まれた区域は相良清兵衛 (さがら・せいべえ)屋敷や息子の相良内蔵助(くらのすけ)屋敷で、馬場の南側には上級武士の屋敷が 広がっていました。整備箇所は、江戸時代初期には下台所や犬童市衛門屋敷でしたが、江戸時代後期 は渋谷三郎左衛門(しぶや・さぶろうざえもん)屋敷がありました。

 発掘調査では、建物跡と方形の井戸跡を確認しました。建物跡は、東西の柱間(はしらま)2間 (5.4m)、南北の柱間5間(10m)の掘立柱(ほったてばしら)建物で、穴の底に厚めの平らな石を礎石とし て置いていました。建てられたのは、出土遺物から江戸時代初期で、寛永(かんえい)17年(1640)の 「お下(しも)の乱」のときに焼失しています。

 建物の西側にある方形の井戸は、江戸時代初期のもので、内法(うちのり)で東西90cm、南北1.1m で、自然石を野面積み(のづらづみ)した井戸です。方形の井戸は、これまでの人吉城跡の発掘調査 では前例がなく、珍しい遺構です。

平成19年3月 人吉市教育委員会