渋谷家屋敷跡

 城の正面入口である大手門周辺は、城の防備にとって重要な場所であるので、監視のための番所 を置き、重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。この場所は寛永(かんえい)16年(1639)の絵図では、 西然太郎(にしぜん・たろう)屋敷と下台所屋敷であったが、翌年の御下(おしも)の乱によって焼失 した。その後、天保(てんぽう)期(1830〜1844)の絵図では、家老の渋谷三郎左衛門(しぶや・さぶ ろうざえもん)(150石)屋敷となっている。

 発掘調査の結果、渋谷家は鍵形の母屋(もや)を中心に土蔵・泉水・井戸などを配しており、 屋敷回りには塀をめぐらしていた。母屋は広さ262u(約80坪)で、台所・広間・座敷・寝間など5部屋 からなり、台所隅には食糧貯蔵用の穴倉がある。広間前の泉水には、魚の寝床となる壺2個がすえら れていた。屋敷の北西部には塀で囲まれる木屋(こや:小屋)の掘立柱建物(2間×4間)がある。平成3 年度復元整備。

平成5年3月 人吉市教育委員会



渋谷家屋敷跡図