御下(おしも)の乱供養碑

 寛永16年(1639)、21代人吉城主相良頼寛(さがら・よりひろ)は父長毎(ながつね)の遺言によって、 専横(せんおう)のふるまいのある相良(犬童)清兵衛頼兄(いんどう・せいべえ・よりえ)を幕府に 訴えた。

 翌年、清兵衛は津軽藩お預けの処分となったが、これを不服とする人吉城内の犬童半兵衛ほかの 一族によって「御下の乱」がおこり、半兵衛方の121人が死亡した。死体は筏(いかだ)に積まれ、矢黒 の亀が淵の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。河川改修のため、昭和48年に清兵衛の屋敷地 であった現在地に移転している。

 碑には次の文字が彫られている。
  「      寛永十七年庚辰
  卍為諸善男諸善女人 各靈
         七月初七日     」

平成7年3月 人吉市教育委員会