二の丸跡

 戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、この場所は「内城」と 呼ばれる婦女子の生活する地区であった。天正(てんしょう)17年(1589)、第20代長毎(ながつね) によって近世城としての築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、慶長(けいちょう)6年 (1601)には石垣が完成している。

 二の丸は、江戸時代の初め「本城(本丸)」と呼ばれているように、城主の住む御殿が建てられた 人吉城の中心となる場所である。周囲の石垣上には瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の枡形に は櫓門式の「中の御門」(2.5間×9.5間)があり、見張りのための番所が置かれた。また、北辺には 御殿から三の丸へ下る「埋御門(うずみごもん)」が土塀の下に作られ、この他に「十三間蔵(けんぐら)」(2間× 13間)や井戸があった。

 三の丸は二の丸の北・西部に広がる曲輪(くるわ)で、西方に於津賀社(おつがしゃ)と2棟の 「塩蔵」(2.5間×6〜7間)を、東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が 確保されている。その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹 茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。これは、人吉城がシラス台地に築かれて いるため、崖の崩壊を防ぐ目的もあった。

 二の丸御殿
 享保(きょうほ)4年(1719)の「高城二の丸御指図(おさしず)」によれば、御殿は北側を正面とする ように配置され、「御広間(おんひろま)」(4間×9間)・「御金ノ間(おんきんのま)」(6間四方)・ 「御次ノ間(おんつぎのま)」(4間×6間)の接客・儀式用の表向(おもてむき)建物と「奥方御居間(おく がたおんいま)」(3間×8間)・「御上台所(おんかみだいどころ)」(3間×9間)・「下台所(しもだいど ころ)」(5間×8間)の奥向の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺(いたぶき)の 建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、建物の間には中庭が作られている。この内、「御金ノ間」 は襖などに金箔が張られていた書院造の建物で、城主が生活・接客する御殿の中心となる建物 である。

平成5年3月 人吉市教育委員会