長頼公の墓 相良家初代 相良長頼(さがら・ながより)の墓
相良氏は藤原鎌足の子孫とされ、平安時代の終わり頃には遠江国(とおとうみ:静岡県中部)
相良荘(さがらしょう)の地頭をしていた武家である。建久(けんきゅう)4年(1193)、相良頼景
(よりかげ)は肥後国球磨郡多良木村(くまぐん・たらぎむら)に下向し、同9年にその第一子長頼が
同郡の人吉荘に下向したとされ、元久(げんきゅう)2年(1205)には人吉庄の地頭に任命されている。
長頼は建長(けんちょう)6年(1254)に78歳で亡くなり、願成寺(がんじょうじ)の金堂(こんどう) 前に埋葬され、永禄(えいろく)7年(1564)の願成寺金堂の再興にあたっては、長頼の遺骨は金堂 須弥壇(しゅみだん)の下に移され、金堂そのものが長頼の廟所(御墓)となったと伝わっていた。 金堂は周辺のお堂とともに明治10年(1877)の西南戦争で焼失したが、その後、金堂跡地に長頼の 墓を建設する運動が起こった。明治20年、金堂跡から長頼の墓石と遺骨が発掘され、それを新築の 石塔の下に改めて埋納し、明治21年に現在の石塔が完成した。石塔碑文は、明治19年に長頼から 数えて第36代の頼紹(よりつぐ)氏が書き記したものである。 平成18年3月 人吉市教育委員会設置 |