石田三成ほかの供養墓

 慶長(けいちょう)5年(1600)の関が原合戦の時、相良家は石田三成らの西軍に属して伏見城を攻め、 その後は石田方の大柿(大垣)城を守っていた。本丸は三成の妹婿の福原直高(ふくはら・なおたか) (豊後国荷揚城主・3万石)、二ノ丸を熊谷直盛(くまがい・なおもり)・庄兵衛(しょうべえ)親子 (豊後国安岐城主・1万5000石)、垣見一直(かきみ・かずなお)(元豊後国富来城主・2万石)、木村 勝正(きむら・かつまさ)・伝蔵(でんぞう)親子(美濃国北方城主・1万石)が守り、三ノ丸は相良長毎 (さがら・ながつね)(人吉城主・2万2千石)、秋月種長(あきづき・たねなが)(日向財部城主・3万石)、 高橋元種(たかはし・もとたね)(日向国延岡城主・5万石)など、主に九州の小大名が守備して いた。

 9月15日、関が原合戦が東軍の勝利となると、大柿城に篭城する諸将のうち相良・秋月・高橋の 三将は、井伊直政(いい・なおまさ)や水野勝成(みずの・かつなり)を通じて徳川家康側の誘いに 応じることになり、二ノ丸の熊谷以下の5人を三ノ丸西門口に軍議を名目に誘い出して殺害し、城門 を開けて東軍とともに本丸の福原氏を攻めたてて大柿城を開城させた。

 この功績で相良氏は球磨郡支配を認められ近世大名として存続したが、寛永(かんえい)9年(1632)、 相良長毎は上記石田三成ほか5人の33回忌供養を行い、願成寺裏山に石塔を建てた。六基の石塔は 右から石田三成、熊谷直盛、熊谷庄兵衛、垣見一直、木村勝正(宗左衛門)、木村伝蔵と伝えられ ている。

平成18年3月 人吉市教育委員会設置