間米蔵跡(あいだこめぐらあと)

 江戸時代中期に描かれた「人吉城大絵図」によると水ノ手門周辺に大村米蔵(おおむらこめくら) 、欠米御蔵(けつまいおくら)、間米蔵がある。3棟…蔵とも切妻造瓦葺き(きりづまづくりかわらぶ き)の建物である。

 間米蔵は、水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢米を納めたと考えられる蔵である。南北 6m×東西20m規模で、3間×10間の建物となる。建物内部は、大型の礎石の配置から2間・3間・3間・ 2間と4室に区分され、床束(ゆかづか)の礎石があるので、床板が張られた建物である。北側には 米を計算するための「斗屋(はかりや)」などの小さな付属屋がつき、南端には雨落しの溝が付属する。  この蔵は、幕末の文久(ぶんきゅう)2年(1862)の寅助(とらすけ)火事で焼失し、その後再建され、 明治初期の払い下げによって解体された。

平成15年3月 人吉市教育委員会